有為転変堂

趣味、政治、日常ごった煮

【感想】ヴァンパイア・イン・ザ・ガーデン

 

久しぶりに前情報一切なしでアニメ作品を見たので、素人批評を書いた。

※主に現実の社会構造や差別問題と絡めた批判が多い。
※ガッツリなネタバレを含むので、これから見ようと思っているネタバレ苦手な方は注意。

以下、初っ端から盛大なネタバレあり。



***

まず結論から言うと、この作品は後味がよろしくないゴリゴリのバッドエンドで、作中に自分の持つマイノリティ性と重なる部分を見出して強く感情移入しながら見てしまった自分はメンタルがズタボロになった。
人によってはメリーバッドエンドであるという見方もあるようだけど、自分は紛うことなきバッドエンドであると感じた(その理由は最後に記述する)。

ヴァンパイアインザガーデンがどんな物語かというと、

●人間と吸血鬼が敵対している世界のお話
●人間のモモと吸血鬼のフィーネが出逢うガールミーツガールでありGL解釈ができる(フィーネは同性愛者or両/全性愛者らしき描写あり)
●モモの母親は典型的な"毒親"で、モモが吸血鬼に心惹かれていることを許せない
●フィーネは故郷にて子孫繁栄の要とされている女王であり、そんな役割を押しつけられることにウンザリしている
●モモとフィーネは周囲の抑圧と干渉から逃れ、人間と吸血鬼が平和に共存できるとされる楽園を目指して二人で旅に出る
●紆余曲折を経てようやくたどり着いたと思った楽園も、結局は少数の犠牲をもってシステムを回しているだけのまやかしだった
●モモとフィーネはそれぞれの故郷から二人を追ってきた者たちに仲を引き裂かれ、最終的にまた二人は手を取るものの、戦闘の負傷によりフィーネは死亡
●二人で創ろうと約束した本当の楽園の中で、ひとり赤ん坊を抱いて穏やかな顔をするモモのシーンで幕引き

といった感じ。

マイノリティ表象について日頃から考えたり知識を蓄えている人であれば、上の要約を見ただけでいくつかの残念ポイントが見つかるかもしれない。


この作品の世界観はファンタジー要素がかなり強く、すべての表象を現実世界にそのまま当てはめることは難しい。
ただ、自分の属性によって望んでいない役割を押し付けられ、そこからはみ出そうとする者を周囲が放っておいてくれないという部分は、概念的にマイノリティの人生を重ねることができる。

また、吸血鬼のフィーネはモモに出会う前に人間の女性に助けられたことがあり、その女性を愛していたと終盤で明かしている。
モモの叔父に「さてはあいつ(モモ)に惚れたな?」と言われるシーンもあり、子孫繁栄の役割=保守的な家族像に不満を抱いていたことも合わせると、同性愛者もしくは両性愛者/全性愛者との解釈が可能だ。

上記を踏まえると、下記のシーンを無批判に見ることはできないなと自分は思った。

①闘争によってフィーネを亡くしたことで、今まで吸血鬼と関わろうとする自分に抑圧的に振る舞っていた"毒親"である母に、モモは「あなたの言う通り自分は世間知らずだった」と口にした
②無事にモモと逃げおおせて結ばれることはなく、道半ばで死んでしまったフィーネ
③最後の楽園のシーンにて、モモが赤ん坊を抱いている描写


まず①について。
人間と吸血鬼が種族の違いから憎しみあい、共存の道を探ることもなく争い続けるという大人たちの価値観に巻き込まれてしまった少女モモは、自分の望む生き方をしようとしたために母を含む大人たちからそれを邪魔され、暴力的に抑え込まれた。
こういった、より権力や知識のある者がそうでない者の選択肢を奪う構図は現実世界でもよく見られるもので、パターナリズムと呼ばれ問題視されている。

他でもない大人たちの過干渉(≒子どもたち自身が望んで作ったものではない社会の仕組みや慣習)のせいで大切な存在を亡くす羽目になったのに、その直接的な加害者であった母に「自分が世間知らずだった」と言わせてしまう……
"普通"とは異なる道を選んだことを、そのせいで罰がくだったという展開に帰結させるのは毒性の強い描き方だと感じた。

吸血鬼であるフィーネに近づいたことで、吸血発作(とてつもなく血が吸いたくなる発作)が起きた彼女に危害を加えられそうになったことは、吸血鬼の特性を理解した上で親しくすることを選んだモモの責任であるとも言える。
でも、フィーネとモモはそれぞれ望んで一緒にいるのに、それを認めたくない周囲の者たちに危害を加えられ邪魔をされたことでフィーネが死んでしまった事実は、二人の責任とは言えないだろう。

モモは母親に自分が世間知らずだったと言い、今までの"助言"にお礼を言い、謝り、しかし関係性は修復せずにこれからはお互い別々の人生を生きようと提案して縁を切る。
縁を切ったこと自体はいい決断だし、これまでにされたことを考えれば当然の結果だと言える。家族の絆だのという幻想にしがみつき、どんなに酷いことをされても最後には和解する作品もこの世にはごまんとあるので、そういう展開にならなかったのはせめてもの救いだ。
でも、だからこそ直前のセリフも、今まで自分に向けられてきた"愛情の皮を被った支配"をそれと指摘した上で跳ね除けるものであってほしかった。

モモには、最後まで自分の生きたいように生きようとした己の選択を誇りに思っていてほしかった。例え形式的なものだとか皮肉だったとしても、"毒親"に「自分が間違っていた」なんて言わせないでほしかった。


②については、現実のマイノリティ表象の描き方の話になる。マイノリティ表象、特に非当事者が作るそれに関しては、時としてそれなりの慎重さが求められる。
なぜかといえば、非当事者が無邪気に作った創作物の影響で偏見や蔑視に苦しめられることになるのは、作り手ではなくマイノリティ当事者だからだ。
作り手は自身の作品内でマイノリティ表象を扱うかどうかを自由に選ぶ権利がある。無理に描く必要はないが、描くことに決めた以上は、当然内容によって強く批判されることがある。

同性愛者のキャラクターは、昔から異性愛者のための都合のいい恋愛相談役にされたり、主人公として描かれても苦悩にばかり焦点が当てられてハッピーエンドになることが少なかったりした歴史があり、それらの歴史は当事者像を歪めた悪質なステレオタイプとして批判的に語られることが多い。
(これはセクシャルマイノリティに限った問題ではなく、人種や女性など、あらゆるマイノリティ表象が似たような歴史を持つ)

最近は主人公として登場した上でハッピーに過ごす同性カップルも少しずつ増えてきて、自分はそういった作品を当事者の一人としてありがたく楽しませてもらっている。
そんな昨今の状況があるだけに、ヴァンパイアインザガーデンの"古風"な悲劇描写には、事前情報なしで見たことも災いしてかなり深々と心を抉られてしまった。
マイノリティが"ネタバレ"なしに作品を見ることは、マジョリティなら食らわないダメージを食らって心身に不調をきたしかねないチャレンジ的行為だ。注意書き文化を蔑む者もいるが、今回のような事態を防ぐためにとても重要な文化だ。

ただ一つ断っておきたいのだが、自分はマイノリティが登場する物語のシリアスな幕引きそのものが悪とまでは思っていない。描き方によっては負の影響から逃れることができない、くらいに思っている。

ヴァンパイアインザガーデンの描写にネガティブな印象を受けたのは、

●(恐らく)非当事者が中心となって作ったもので
●同性に惹かれるキャラクターが結ばれることなく悲痛な死を遂げ
●それがメリーバッドエンドとも解釈されるようなマジョリティ目線の"儚くも美しい"ものとして消費的に描かれているから

という、全体の構成を踏まえた上でのことだ。
悲恋ものが好きな当事者も中にはいるだろうし、自分も切ない最後を迎える同性愛作品(『there's this girl』というアプリゲームなど)に心惹かれた経験があるので、一概に悲劇のすべてがダメだとまでは思っていない。

結ばれることなく死別してしまうという展開は、"普通(異性愛・同種族)でないから困難にあい、悲劇を迎えてしまう"という意識からそういったシリアスな描き方ばかりされてきたマイノリティの歴史を、意識するしないに関わらずなぞってしまうものでもあり、実は扱いが難しい。相当な手腕を持つ歴史にも明るい当事者でないと、現代でそのような展開の作品を素晴らしい出来に仕上げるのは難しいだろう。

ヴァンパイアインザガーデンは、作中で同性を愛するフィーネに対しての偏見の描写(相手が女だからやめろなどと言われるようなこと)は一切なかった。だからこそ作品への期待値が上がってしまい、終盤でより深い傷を負ってしまったというのもあるかもしれない。


そして最後の③。
最初に断っておきたいのは、このシーンはスタッフロールの後におまけ程度に挿入されていたものであり、モモのセリフは一切なく、フィーネの語りが回想のように重ねられているだけだ。なので、抱いている赤ん坊がモモ自身の子であるという確証はない。
国産作品には、子を成す=幸福の象徴であるという手垢にまみれたラストが描かれることが多いと感じることから、この作品もそういうことなのではないか?という推測をしたに過ぎない。
あの赤ん坊は、もしかしたら楽園で暮らす吸血鬼が産んだ他人の子をモモが抱いているだけかもしれないし、その可能性も否定はしないでおく。

ただ、それが実子であれ他人の子どもであれ、赤ん坊を抱いて穏やかな表情をする女性の姿(≒母性)を平和や幸福の象徴として描くことは、それ自体が家父長制的な価値観と密接に繋がったものであるため、批判の対象となることに変わりはない。

この作品は前述した通り、戦争や家父長制的な価値観から自由になろうとした二人の女が強い繋がりを育む物語で、片方は同性を愛する者であると明言までされている。
同性愛者は昔から蔑視や差別に晒され、時に命を脅かされることもあるというのは周知の事実だ。そして、人間社会には家父長制のもとに女性の自由が奪われていた時代があり、今も制度や人々の意識の中にその名残があり、差別は続いている。
女性どうしのカップルというのは、女性、同性愛という二つのマイノリティ性を持つことから、その二つの属性が受ける差別が複雑に絡み合ったものを受けることがある。

そんな繊細な設定のキャラクターを使い、前半には真っ向から家父長制に抗うようなストーリーを展開しておきながら、ラストシーンが家父長制を感じさせる古臭い結びなのは、あまりにも酷すぎて怒りを通り越して脱力した。
どうしてこうなった……


ちなみにこの作品の監督は、主人公二人のあり方はアニメ業界を投影させたものでもあるとインタビューで語っている。

https://realsound.jp/movie/2022/05/post-1035286.html/amp

――「アニメ業界では食っていけない」という周りの声を否定したいと思っていた若かりし頃の自身をモモ、夜に度々訪れる終わりのない負の気持ちをフィーネに反映した――
とのこと。

正直、じゃあ実在するマイノリティ属性を利用せずに完全ファンタジーにしたり、業界をそのまま描いたらいいだろうと思った。利用された属性を持つ当事者としてはそう言わざるを得ない。
実在するマイノリティ属性を自分の描きたい問題を表現するための便利ツールにしないでくれ……

また、圧倒的正義に寄り添わなければならない風潮に疑問を呈したかったとも語っているけれど、"圧倒的正義に寄り添わなければならない風潮"とは具体的にどんなもので、作中のどの人物がそれを表現する役目を背負っているのかがよく分からなかった。

自分の目から見たら、モモとフィーネを引き裂こうとする周囲の者たちは"悪"で、モモとフィーネは"正義"だが、それだと己の意思で一緒にいることを選んだモモとフィーネが死別するという展開がより一層酷いものになる。さすがにそこまで露悪的な作品だとは思いたくない。
でも、パターナリスティックで慣習の中に押し込めようとする周囲の人間たちを"正義"と仮定するのも、さすがに無理があるように思うし……
監督の意図がイマイチ分からない。


そんな感じの作品だったため、自分は見たあとかなり気分が悪くなり、しばらく体調を崩したままだった。
終わり良ければすべて良しというわけではないが、せめて紆余曲折ありつつもモモとフィーネが無事に逃げおおせる作品であったならと思わずにはいられなかった。

 

10年ぐらいぶりに『モノノ怪』を見た話


モノノ怪の映画が延期&櫻井氏降板になった件を不意に思い出して、そういえば日本では珍しく骨のあるステートメントを出してたけどあのアニメどんな感じだったっけ?と思って10年ぐらいぶりに見た。


Twitterで検索したら、あのアニメはフェミニズム的な内容ととる人と無自覚ミソジニーととる人で割れてるっぽいことを知ったけど……制作当時の作り手の思想背景を知る方法がなくて、実際どうなのかが分からない。

全体的なストーリー構成としてはフェミニズム寄りだとおれは思った。でも、細かなセリフやキャラ設定には一部ミソジニーが含まれてるなぁと感じるというか。
それが無自覚なのかあえてなのかによっても見方が変わるけど、意図的だとしたらそれはそれで視聴者にそうと分からせるためのフォローが足りてないように思う。


ただ、Ayakashiではなくモノノ怪の方の『化猫』は、他のエピソードよりもミソジニーを露骨に感じた。
市長の汚職をすっぱ抜いた女性記者市川が、実は裏で市長と繋がってたミソジニー丸出しな男性上司に裏切られ仕事を握りつぶされそうになって抗ったために殺されるという話の大筋は、現実にある差別構造も踏まえていてとてもいいのだけど……市川と容疑者のハルとチヨの描き方は引っかかる部分が多かった。

まず市川をかなり強情で傲慢に描いているせいで、彼女の死は搾取構造や差別の延長線上にあるという点がボヤけてしまっている。
市川が自分よりも下等な職業の女性に対して不遜な態度をとるシーンなんて、自分も社会構造の強者になる瞬間があるのだとハッとするとかならともかく、何のフォローもないのならなぜわざわざ入れたのかが分からない……
どんな性格であれ市川が被害に遭ったことは確かなのに、知識のない人に単なる自業自得、ざまあみろと思わせてしまうような構成になってしまっていると感じた。
上司と揉み合いになった末に下着が見える(しかも無意味にドアップになる)シーンがあるのも、"悪女を酷い目に遭わせる"的な手垢描写を思わせる。

夫を亡くしたハルが日々不仲の姑の世話ばかりでロクに外出もできずコソコソ生きるしかないことに心底ウンザリしていて、その苦しみを癒すために愛人と寝ていることもみっともないことのように描いてるけれど……老家族の世話を(時に社会的プレッシャーとして)押し付けられるというのも、上を中高年男性が占めている職場で昇進を目指す市川がぶつかる壁と同じく女性ジェンダーと切り離せない問題だ。

チヨも名前を売りたくて事件を利用したこと自体は悪いけど、芸能界のベテランや上層部の中高年男性が新人に仕事をチラつかせ性的奉仕を強要するという歪んだ構造はそこかしこにあるのに、映画に出してやると言った上層部男性に擦り寄ってるチヨを批判的に描くのはなぁ……


そもそも容疑者の男性陣は職務上の過失のみを批判的に描かれているのに対して、女性陣だけ上記のような事件とは無関係な私的な部分も蔑視的に描かれているという非対称さも酷い。
そして、市川を死なせた直接の原因である上司のセリフにミソジニーが滲みまくってるのは一種の伏線としてアリだと思うけど、他の男性キャラたちも女性に対して蔑視的な発言を連発するのには違和感と嫌悪感しかなかった。基本回収されずに投げっぱなしだし。

もしこれらの描写が無自覚蔑視ではなく女性たちの苦悩を真摯に描こうとしたものだとしたらあまりにも言葉が足らなすぎるし、構成も下手すぎる。これほどのクオリティの作品を作れる制作陣に限ってそれはない……と思いたい。
……いや、技術的な部分が秀でていても陥ってしまうのが差別構造というものではあるけども。

制作陣の方々は"言葉に頼らない演出"を信仰しすぎてはいないだろうか……
ジョジョシリーズのような特殊な例外はあれど、何もかもすべて言葉で説明してしまうのは確かにダサい。でもそれは、単純に極限まで言葉をカットすることで解消されるというわけではない。この作品のようにダサさとは別の深刻な問題を生む結果になることもある。
どうしてもそういう演出で作りたいのなら、言葉足らずゆえに誤読された時に特定の層に実害がいくような現実にある差別・搾取を描くのはやめなよと思う。


もしモノノ怪という作品を今初めて見たとしたら、おれは最後まで見れただろうか……なんて考えてしまった。
これだけ微妙な描写があっても最後まで見れたのは、(ストーリーはほぼ忘れていたとはいえ)思い出深い作品だからというのが大きい気がする。なので、この作品を単なるミソジニーだと解釈した人の気持ちも分かる。

モノノ怪は2007年の作品。15年以上が経った今、あのステートメントのおかげもあって映画ではもっといろいろと描き方がアップデートされているのではと期待してる。
(まぁ経験上、国産作品に強い期待をすると傷つく結果になることが多いからほどほどにね……)

 

推しの恋愛や結婚でファンをやめることについて

 

フォロイーさんの質問箱に、恋人や婚約者ができたことを理由に推しのファンをやめる人がいたとしてもそれ自体は個人の自由ではという内容の質問が届いていた。
フォロイーさんはそれに対して、推しの人権に関わることだから気持ちを表出する場所は考えなきゃいけないし攻撃したりするのは論外だけど どんな理由でファンになるかやめるかはその人の自由だし 自分もそういう理由でファンをやめることを責める人間は苦手だと回答していた。
勝手ながら、何だか救われた気持ちになった。

自分はSNSのプロフィールに書いてある通り、フィクトセクシャルを自認している。フィクトセクシャルというとその名の通りフィクションの中の架空の人物に性的魅力を感じるセクシャリティとして知られているけれど、芸能人などの"手が届かない"人物も対象となるとされている。

今までの人生の中で、芸能人などの実在人物を性愛の対象として認識したことはそれほど多くはない。一番多かったのは小学生くらいのころだろうか。たぶん高校以降はほとんどなかったと思う。
でもそれは、生身の人間に興味がなくなったとか指向が変わったからではない。自分で自分の欲求を抑え込み、できるだけそういった思考にならないように"努力"をした結果だ。

芸能人とは少し違うかもしれないが、好きなYouTuberやゲーム実況者は高校時代から途切れることなくいた。性的魅力を感じそうになったことなら幾度となくあった。
その度に欲求を過度に抑え込んだ。時にはフィクトセクシャルの人間に向けられがちな蔑視をあえて自分自身に向けることで、己の目を無理やり覚まさせた。

冷静に考えたら欲求を持つこと自体は何も悪くないし、相手に迷惑がかかることもない。人前に出る活動をしている人の中には、自身がそういった目線を向けられることを想定して黙認・歓迎している者もいるくらいだ。
自分の一連の行動原理は間違いなく他者から向けられる蔑視だったのだけど、そのことに気づかないまま自分自身がその蔑視を内面化して、自分が一番楽しめる在り方を封印し続けてきた。その在り方の基盤が揺らぐ(恋人や結婚相手ができる)ことで、ファンを続けられなくなるかもしれないからと。

自分の中で、恋愛絡みでファンを辞めることはいつの間にか悪ということになっていた。個人的には一度もそんなふうに思ったことはなかったけれど、自分の観測範囲では大抵の場合そういうことになっているらしいと知り、その圧倒的な価値観に抗う気力がなかったからだ。

そうして過ごすうちに時は経ち、先月、韓国アイドルであるBTSに沼落ちした。
自分は"沼落ち"という表現をあまり使わない人間なのだけど、彼らへのハマり方は沼落ちとしか言い表しようがない。唐突にドボンした。自分自身が一番驚いている。
彼らのことは、ファンであると同時に深く尊敬の念を抱いている。セルフラブを大切にし、時に社会問題についても発信し、ファンと持ちつ持たれつの関係を丁寧に築く彼らが大好きだ。ファンになる前から彼らの人権や差別に対するスタンスや功績を、SNSのフォロイーさんの発信で薄らとは知っていた。

じゃあ、彼らに対して性的魅力をまったく感じていないのか、そういう目では一切見ていないのかと言われれば、答えはNOだ。
正直、自分はBTSに対してそういう見方もしているかもしれないと気づいた時、ものすごい自己嫌悪と罪悪感に襲われた。またいつものように欲求を誤魔化して抑え込んで、自分は"迷惑な存在"などではないのだと思い込もうとした。
でも、それは難しかった。何せ彼らはアイドルなのだ。自分たちが魅力的に見える装いやポーズや言葉を、他でもないファンたちのために惜しげもなく浴びせてくる。ファンが"そういう見方"をすることを前提に活動しているプロフェッショナルたちなのだ。
だから周りのファンも欲望を隠さないし、彼らもそれに全力で応える。そんな姿を見ていたらだんだん気が緩んできて、気づいたら夢創作を漁っていた。生まれて初めて実在人物の夢創作に手を出した。ここまできてしまったらもう誤魔化しようがなかった。
でも、罪悪感だけは変わらずに心の奥でずっとくすぶり続けていた。

そんな時にフォロイーさんの元に届いた質問文と回答を読んで、もうこれ以上無意味に自分を苦しめなくてもいいのかもしれないと思った。
どこの誰かも分からない匿名の文章と、話したこともないフォロイーさんの返答にこんなふうに救われるのは変かもしれないし、おこがましいかもしれないけど、心に纏っていたドス黒いモヤが晴れていくのを感じた。

BTSメンバー、特に最推しの恋愛事情や結婚情報(の正式発表)を目にしたら、きっと自分は辛くなると思う。彼らには人間としての憧れの気持ちも抱いているし曲も大好きだからファン自体をやめることはないと思うけれど、推し変はするかもしれない。
これからも幸せでいてほしいと願う気持ちはありつつも、心からおめでとうと言える自信はあまりない。発表に対して何のリアクションもせずに黙ってしまう気がする。
それらの感情を大切な自分の一部として抱きしめつつ、自分と同じ一人の人間である彼らの負担にならないように最善の行動をとることは、本来両立できることのはずだ。そして、最善の行動の中には、彼らや自分自身の心を守るために"黙ってファンという立場から去る"というのもあっていいのではないだろうか。
ポジティブな行いであるはずの推し活を辛さを我慢してでも続けるなんてのは、それこそ本末転倒だ。

そもそも、恋愛禁止や恋愛発覚による罰則などの人権侵害は事務所が課すものであって、ファン側に決定権はない。事務所は無茶な要求をするファンからアイドルを守るムーブもできるわけだが、"商売道具"の権利を守ることよりも商売を守ることを選びとっているために起きている事態とも言える。

仮にファン側を批判するとしてもその矛先は無茶な要求をすることや攻撃的な手段に対してであるべきで、"楽しみ方"そのものをジャッジし、これはいい楽しみ方でこれはダメな楽しみ方だと決めつけるのは、いわゆる"害悪オタク"と呼ばれる行いそのものではないか。

先月あたり、自分はこの話題に関するSNS上でのやり取りの中で「恋愛したくらいでやめるファンなら最初からいらねぇよ」という返信に4桁のいいねがついているのを見かけてしまい、動悸がして、頭が真っ白になった。
構造に苦しめられているアイドル本人の口から絞り出された言葉ならともかく、発信者は同じ立場であるはずの一ファンで、文末に「w」が羅列していたことにもかなり心を削られた。文体を見るに、アイドルを心から心配しての批判の言葉というよりは疑似恋愛を楽しむファンへの蔑視感情からくる暴言だろう。

本来自由であるはずのファン動機やそれをやめる理由を上から目線で勝手にジャッジされ、不合格だとみなされたらそれまでの真摯な応援まで無駄なものだったと切り捨てられ、嘲笑されなければならない道理がいったいどこにあるのだろう。特にアイドルという存在は性的魅力も売りのひとつとしている、そういう見られ方を想定した職業であるはずなのに、それを素直に受け取って楽しんでいるだけでなぜそこまで言われなければならないのだろう。
性愛感情の絡まないファンはそんなにも偉いのか。ましてやその価値観をアイドルのファンダムにまで持ち込むのは傲慢ではないのか。

これからもこういった暴言や蔑視に晒されながら推し活をしなければならないだろうことを思うと苦しくなる。
両立可能なものを二者択一しなければならないかのように扱われるのには、本当にウンザリだ。

それでも自分は、これからも彼ら/彼女らの性的魅力を自分の在り方に正直に受け止めて、攻撃的なファンがいればそのやり方を諌め、いつどんな理由でファンになるかやめるかを自分自身の意思で自由に選択したいと思っている。

幽麗塔のジェンダー描写

 

※この文章は2022年3月にふせったーにて投稿した感想文(という名の愚痴)を転載したものです。

 

※当時の自分の浅い知識による見解から、ジェンダーマイノリティがカミングアウトしてクローゼットから抜け出した描写を注釈なしに良いことと書いている箇所があります。

現在は、差別が蔓延しているこの社会ではクローゼットから抜け出せない/抜け出すことを選ばない人の選択も尊重されるべきであり、カミングアウトを注釈なしに持ち上げることはクローゼットから出ないことを選択した方にプレッシャーを与える可能性もあるかもしれないと考えています。

 

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本当は全話読んでから評価するべきなんだろうけど、全80話中15話まで読んだところでいろいろ耐えられなくなって中断してしまったので、あくまで15話時点まで+wikiや感想記事などのネタバレで得た知識による愚痴。

この作品との出会いは、さかのぼることおよそ8年前。最寄りの本屋では、新しく発売されたコミックの1話分を印刷した小冊子が本棚に括られていることがたまにあり、新作の試し読みができた。その中の1つに、当時まだ連載が始まって間もなかった幽麗塔もあった。1話目のインパクトが強い作品なのでよく覚えている。
数年後、Twitterフェミニスト垢の間で #ジェンダーストレスの少ない作品 というタグが流行った際に、一人の方がこの作品をオススメとして挙げていた。日頃からTwitter上で見かけたオススメ作品をメモする習慣があった自分は、へぇーこの作品ってそういう感じなんだ…… と思いながらメモに書き加えた。
そして先日、時を経てようやく一覧の中にあった幽麗塔を読み始めたのだ。ピッコマで。

元々ジェンダーの知識が深い人がオススメしていた作品なので、期待は高かった。そしてググってみたら2014年に「センス・オブ・ジェンダー賞」なるものも受賞していると知って期待はさらに高まった。
思えばその高まりに高まりすぎた期待も仇となったのかもしれない……

まず幽麗塔の何が一番無理だったかというと、この作品に登場する複数のクズな男性キャラがクズな部分をお披露目してもほとんど何もお咎めがなく放置されていた点だ。
クズといっても少々性格が悪いとか欲深いとか、そんなレベルではない。

一人は、学園のマドンナ的存在だった女性が床に伏せている母親の手術費が払えず困っていたところにつけ込み、結婚を取り付けた(しかも彼女が殺されてからは一人残された母親を見捨て、手術費の支払いは反故に)。
一人は、実の娘を性的虐待などで肉体的にも精神的にも支配し、自分以外の男を近づけないよう監視までしていた。
一人は、事ある毎に女性の肉体の性的魅力をジャッジしまくりな上、自分の身の上を利用して無理やり迫ってきた男を殺さざるを得なかった若い女性キャラについて「刑務所出るころにはいっぱしのアバズレになって逞しく生きていくだろう」などと言い放った根っからのセクシスト。

3人目はどうやら物語の途中で死ぬらしいことが分かったが、恐らくこれまでのセクシズム発言とは全くの無関係な死に方をするのだと思う。
あとの2人は完全にお咎めなし。

クズな男性のクズな部分や抱えている問題を描くために女性キャラが何のフォローもなく舞台装置として消費されていく様を、まさかジェンダーストレスの少ない作品としてフェミニズムと親和性の高い方に紹介されていた作品で見せられる羽目になるとはまったく思っていなかった。

いろいろ検索していたらこの作品を紹介した方のアカウントを再発見したので、「幽麗塔」のワードが含まれるツイートを他にも検索して感想を読んでみた。
上記した3人目のクズ男性キャラについて、このキャラは好きだけど発言にミソジニーが見受けられる。あえてなのか? とツイートしてらっしゃった。
(あえてなのか?と疑わざるを得ないほどフォローの足りてないミソジニー描写がある作品を、"ジェンダーストレスの少ない作品"として紹介しないでほしかった……)

そしてwikiいわく、性的虐待を受けていた娘キャラは一度は母の元に逃げ込もうと考えたものの、虐待父の元での裕福な暮らしを当たり前に育ったせいで母の貧乏暮らしに馴染むことはできないだろうと考え、脱走を諦めてしまうらしい。
貧しいが身の安全が保たれる暮らしよりも壮絶な虐待をしてくる心の底から憎んでいる父を選ぶ娘なんているんだろうか……逃げるあてが全くないのならともかく。
作者は虐待について軽く考えすぎてないだろうか。
この娘キャラは最終的には父の元を離れて一人で逞しく生きていくらしいが、長年続いた虐待によるダメージ描写や父親への制裁は(ネタバレを読んだ限りでは)一切なさそうで、真面目に回収する気もないのに物語のスパイスに性的虐待というセンシティブな題材を使うなよと思った。


そして、幽麗塔のジェンダー描写といえば一番重要な主題とも言える部分がある。主人公とともに行動するメインキャラ、テツオの存在だ。
このキャラクターはトランスジェンダーであり、その事実はこの物語の根幹に関わってくる。

ネタバレを読んだ感じだと、物語の最後にはテツオは自分のジェンダーアイデンティティを明かした上で、マイノリティへの差別がない世の中を作るべく主人公と共に行動することを決意するらしい。読んでいないため細かい描写などは分からないが、オチは悪くはないと思う。
クローゼットからも抜け出し、恐らく主人公もそれを受け入れ、前に進むことができたのだから。

ただ、それまでのテツオの描き方には(自分が読んだ15話までの時点でも)かなりの問題があったように思う。
テツオは(トランス)男性なのだが、作中においてやたらと出生時に割り当てられた性別に基づく性的誇張描写が多かった。主人公と出会って間もないころの入浴描写では腰のくびれを強調するようなアングルがあり、ポーズもかなり女性性を意識したものになっていた。旅館のシーンでは酔ったテツオが山に登る際にバランスを崩し、浴衣がはだけて腰から脚がおっぴろげになるのだが、そのシーンもやたらと艶やかで、シス男性の肉体を描くのとは明らかに異なる力の入れようだった。
しかも、主人公はそんなテツオの容姿を見てドキドキする場面が何度かあり、何で相手は男のはずなのにこんなに反応してしまうんだ!?と彼はそのたびに苦悩する。

自分はシスジェンダーなのでトランスジェンダーの方がこれらのシーンを見てどう感じるのか、その感覚を事細かに想像することは難しい。でも、少なくとも サイコー! とはならないんじゃないだろうか……
トランスジェンダーの方にとって最も意識したくない事柄であろう、自分をトランスジェンダーたらしめる「出生時に割り当てられた性別」をこれでもかと意識させるような描写があり、さらに異性の主人公がその部分に性的魅力を覚えるシーンが何度もあるというのは……
あくまでトランスジェンダーの知識がそこそこあるシスジェンダーの一個人による感想だけど、「シスジェンダー目線で描かれたトランスジェンダー」の域を出ないように思う。


そんなこんなでつもりにつもった不満が爆発し、15話までしか読むことができなかった幽麗塔。
まあでも、この作品が連載開始したのは10年以上前の2011年12月。その当時の自分はフェミニズムのフェの字も知らない根っからのセクシストだった。
もしかしたら幽麗塔の作者も、最近の作品では幽麗塔の時のようなジェンダー描写はしていないかもしれない。確かめるにはそれなりの勇気がいるが。

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追記

この作品が受賞した「センス・オブ・ジェンダー賞」だが、主催団体の関係者の複数名がトランス差別的な言動をSNSに投稿していたことが確認されており、現在自分はこの賞や団体そのものを懐疑的に見ています。

(トランス差別的な言動が投稿されたのは、幽麗塔が受賞したあとの出来事です)