有為転変堂

趣味、政治、日常ごった煮

【感想】ヴァンパイア・イン・ザ・ガーデン

 

久しぶりに前情報一切なしでアニメ作品を見たので、素人批評を書いた。

※主に現実の社会構造や差別問題と絡めた批判が多い。
※ガッツリなネタバレを含むので、これから見ようと思っているネタバレ苦手な方は注意。

以下、初っ端から盛大なネタバレあり。



***

まず結論から言うと、この作品は後味がよろしくないゴリゴリのバッドエンドで、作中に自分の持つマイノリティ性と重なる部分を見出して強く感情移入しながら見てしまった自分はメンタルがズタボロになった。
人によってはメリーバッドエンドであるという見方もあるようだけど、自分は紛うことなきバッドエンドであると感じた(その理由は最後に記述する)。

ヴァンパイアインザガーデンがどんな物語かというと、

●人間と吸血鬼が敵対している世界のお話
●人間のモモと吸血鬼のフィーネが出逢うガールミーツガールでありGL解釈ができる(フィーネは同性愛者or両/全性愛者らしき描写あり)
●モモの母親は典型的な"毒親"で、モモが吸血鬼に心惹かれていることを許せない
●フィーネは故郷にて子孫繁栄の要とされている女王であり、そんな役割を押しつけられることにウンザリしている
●モモとフィーネは周囲の抑圧と干渉から逃れ、人間と吸血鬼が平和に共存できるとされる楽園を目指して二人で旅に出る
●紆余曲折を経てようやくたどり着いたと思った楽園も、結局は少数の犠牲をもってシステムを回しているだけのまやかしだった
●モモとフィーネはそれぞれの故郷から二人を追ってきた者たちに仲を引き裂かれ、最終的にまた二人は手を取るものの、戦闘の負傷によりフィーネは死亡
●二人で創ろうと約束した本当の楽園の中で、ひとり赤ん坊を抱いて穏やかな顔をするモモのシーンで幕引き

といった感じ。

マイノリティ表象について日頃から考えたり知識を蓄えている人であれば、上の要約を見ただけでいくつかの残念ポイントが見つかるかもしれない。


この作品の世界観はファンタジー要素がかなり強く、すべての表象を現実世界にそのまま当てはめることは難しい。
ただ、自分の属性によって望んでいない役割を押し付けられ、そこからはみ出そうとする者を周囲が放っておいてくれないという部分は、概念的にマイノリティの人生を重ねることができる。

また、吸血鬼のフィーネはモモに出会う前に人間の女性に助けられたことがあり、その女性を愛していたと終盤で明かしている。
モモの叔父に「さてはあいつ(モモ)に惚れたな?」と言われるシーンもあり、子孫繁栄の役割=保守的な家族像に不満を抱いていたことも合わせると、同性愛者もしくは両性愛者/全性愛者との解釈が可能だ。

上記を踏まえると、下記のシーンを無批判に見ることはできないなと自分は思った。

①闘争によってフィーネを亡くしたことで、今まで吸血鬼と関わろうとする自分に抑圧的に振る舞っていた"毒親"である母に、モモは「あなたの言う通り自分は世間知らずだった」と口にした
②無事にモモと逃げおおせて結ばれることはなく、道半ばで死んでしまったフィーネ
③最後の楽園のシーンにて、モモが赤ん坊を抱いている描写


まず①について。
人間と吸血鬼が種族の違いから憎しみあい、共存の道を探ることもなく争い続けるという大人たちの価値観に巻き込まれてしまった少女モモは、自分の望む生き方をしようとしたために母を含む大人たちからそれを邪魔され、暴力的に抑え込まれた。
こういった、より権力や知識のある者がそうでない者の選択肢を奪う構図は現実世界でもよく見られるもので、パターナリズムと呼ばれ問題視されている。

他でもない大人たちの過干渉(≒子どもたち自身が望んで作ったものではない社会の仕組みや慣習)のせいで大切な存在を亡くす羽目になったのに、その直接的な加害者であった母に「自分が世間知らずだった」と言わせてしまう……
"普通"とは異なる道を選んだことを、そのせいで罰がくだったという展開に帰結させるのは毒性の強い描き方だと感じた。

吸血鬼であるフィーネに近づいたことで、吸血発作(とてつもなく血が吸いたくなる発作)が起きた彼女に危害を加えられそうになったことは、吸血鬼の特性を理解した上で親しくすることを選んだモモの責任であるとも言える。
でも、フィーネとモモはそれぞれ望んで一緒にいるのに、それを認めたくない周囲の者たちに危害を加えられ邪魔をされたことでフィーネが死んでしまった事実は、二人の責任とは言えないだろう。

モモは母親に自分が世間知らずだったと言い、今までの"助言"にお礼を言い、謝り、しかし関係性は修復せずにこれからはお互い別々の人生を生きようと提案して縁を切る。
縁を切ったこと自体はいい決断だし、これまでにされたことを考えれば当然の結果だと言える。家族の絆だのという幻想にしがみつき、どんなに酷いことをされても最後には和解する作品もこの世にはごまんとあるので、そういう展開にならなかったのはせめてもの救いだ。
でも、だからこそ直前のセリフも、今まで自分に向けられてきた"愛情の皮を被った支配"をそれと指摘した上で跳ね除けるものであってほしかった。

モモには、最後まで自分の生きたいように生きようとした己の選択を誇りに思っていてほしかった。例え形式的なものだとか皮肉だったとしても、"毒親"に「自分が間違っていた」なんて言わせないでほしかった。


②については、現実のマイノリティ表象の描き方の話になる。マイノリティ表象、特に非当事者が作るそれに関しては、時としてそれなりの慎重さが求められる。
なぜかといえば、非当事者が無邪気に作った創作物の影響で偏見や蔑視に苦しめられることになるのは、作り手ではなくマイノリティ当事者だからだ。
作り手は自身の作品内でマイノリティ表象を扱うかどうかを自由に選ぶ権利がある。無理に描く必要はないが、描くことに決めた以上は、当然内容によって強く批判されることがある。

同性愛者のキャラクターは、昔から異性愛者のための都合のいい恋愛相談役にされたり、主人公として描かれても苦悩にばかり焦点が当てられてハッピーエンドになることが少なかったりした歴史があり、それらの歴史は当事者像を歪めた悪質なステレオタイプとして批判的に語られることが多い。
(これはセクシャルマイノリティに限った問題ではなく、人種や女性など、あらゆるマイノリティ表象が似たような歴史を持つ)

最近は主人公として登場した上でハッピーに過ごす同性カップルも少しずつ増えてきて、自分はそういった作品を当事者の一人としてありがたく楽しませてもらっている。
そんな昨今の状況があるだけに、ヴァンパイアインザガーデンの"古風"な悲劇描写には、事前情報なしで見たことも災いしてかなり深々と心を抉られてしまった。
マイノリティが"ネタバレ"なしに作品を見ることは、マジョリティなら食らわないダメージを食らって心身に不調をきたしかねないチャレンジ的行為だ。注意書き文化を蔑む者もいるが、今回のような事態を防ぐためにとても重要な文化だ。

ただ一つ断っておきたいのだが、自分はマイノリティが登場する物語のシリアスな幕引きそのものが悪とまでは思っていない。描き方によっては負の影響から逃れることができない、くらいに思っている。

ヴァンパイアインザガーデンの描写にネガティブな印象を受けたのは、

●(恐らく)非当事者が中心となって作ったもので
●同性に惹かれるキャラクターが結ばれることなく悲痛な死を遂げ
●それがメリーバッドエンドとも解釈されるようなマジョリティ目線の"儚くも美しい"ものとして消費的に描かれているから

という、全体の構成を踏まえた上でのことだ。
悲恋ものが好きな当事者も中にはいるだろうし、自分も切ない最後を迎える同性愛作品(『there's this girl』というアプリゲームなど)に心惹かれた経験があるので、一概に悲劇のすべてがダメだとまでは思っていない。

結ばれることなく死別してしまうという展開は、"普通(異性愛・同種族)でないから困難にあい、悲劇を迎えてしまう"という意識からそういったシリアスな描き方ばかりされてきたマイノリティの歴史を、意識するしないに関わらずなぞってしまうものでもあり、実は扱いが難しい。相当な手腕を持つ歴史にも明るい当事者でないと、現代でそのような展開の作品を素晴らしい出来に仕上げるのは難しいだろう。

ヴァンパイアインザガーデンは、作中で同性を愛するフィーネに対しての偏見の描写(相手が女だからやめろなどと言われるようなこと)は一切なかった。だからこそ作品への期待値が上がってしまい、終盤でより深い傷を負ってしまったというのもあるかもしれない。


そして最後の③。
最初に断っておきたいのは、このシーンはスタッフロールの後におまけ程度に挿入されていたものであり、モモのセリフは一切なく、フィーネの語りが回想のように重ねられているだけだ。なので、抱いている赤ん坊がモモ自身の子であるという確証はない。
国産作品には、子を成す=幸福の象徴であるという手垢にまみれたラストが描かれることが多いと感じることから、この作品もそういうことなのではないか?という推測をしたに過ぎない。
あの赤ん坊は、もしかしたら楽園で暮らす吸血鬼が産んだ他人の子をモモが抱いているだけかもしれないし、その可能性も否定はしないでおく。

ただ、それが実子であれ他人の子どもであれ、赤ん坊を抱いて穏やかな表情をする女性の姿(≒母性)を平和や幸福の象徴として描くことは、それ自体が家父長制的な価値観と密接に繋がったものであるため、批判の対象となることに変わりはない。

この作品は前述した通り、戦争や家父長制的な価値観から自由になろうとした二人の女が強い繋がりを育む物語で、片方は同性を愛する者であると明言までされている。
同性愛者は昔から蔑視や差別に晒され、時に命を脅かされることもあるというのは周知の事実だ。そして、人間社会には家父長制のもとに女性の自由が奪われていた時代があり、今も制度や人々の意識の中にその名残があり、差別は続いている。
女性どうしのカップルというのは、女性、同性愛という二つのマイノリティ性を持つことから、その二つの属性が受ける差別が複雑に絡み合ったものを受けることがある。

そんな繊細な設定のキャラクターを使い、前半には真っ向から家父長制に抗うようなストーリーを展開しておきながら、ラストシーンが家父長制を感じさせる古臭い結びなのは、あまりにも酷すぎて怒りを通り越して脱力した。
どうしてこうなった……


ちなみにこの作品の監督は、主人公二人のあり方はアニメ業界を投影させたものでもあるとインタビューで語っている。

https://realsound.jp/movie/2022/05/post-1035286.html/amp

――「アニメ業界では食っていけない」という周りの声を否定したいと思っていた若かりし頃の自身をモモ、夜に度々訪れる終わりのない負の気持ちをフィーネに反映した――
とのこと。

正直、じゃあ実在するマイノリティ属性を利用せずに完全ファンタジーにしたり、業界をそのまま描いたらいいだろうと思った。利用された属性を持つ当事者としてはそう言わざるを得ない。
実在するマイノリティ属性を自分の描きたい問題を表現するための便利ツールにしないでくれ……

また、圧倒的正義に寄り添わなければならない風潮に疑問を呈したかったとも語っているけれど、"圧倒的正義に寄り添わなければならない風潮"とは具体的にどんなもので、作中のどの人物がそれを表現する役目を背負っているのかがよく分からなかった。

自分の目から見たら、モモとフィーネを引き裂こうとする周囲の者たちは"悪"で、モモとフィーネは"正義"だが、それだと己の意思で一緒にいることを選んだモモとフィーネが死別するという展開がより一層酷いものになる。さすがにそこまで露悪的な作品だとは思いたくない。
でも、パターナリスティックで慣習の中に押し込めようとする周囲の人間たちを"正義"と仮定するのも、さすがに無理があるように思うし……
監督の意図がイマイチ分からない。


そんな感じの作品だったため、自分は見たあとかなり気分が悪くなり、しばらく体調を崩したままだった。
終わり良ければすべて良しというわけではないが、せめて紆余曲折ありつつもモモとフィーネが無事に逃げおおせる作品であったならと思わずにはいられなかった。